中学2年の夏、僕は決めました。
「大人になったらアメリカ人になる」
って・・・。
POPEYEという雑誌が僕のバイブルでした。(当時、ヌードのない男性誌として有名)
そこにあるのはアメリカ西海岸でのバカみたいにハッピーな生活。
降り注ぐ太陽、大きな家、スケボー、ローラースケート、サーフィン、金髪のねえちゃん。
僕の憧れの全てがそこにありました。
いてもたってもいられませんでした。
「中学を卒業したらアメリカに行く!」
そう決めました。
「でも、アメリカ人になるんなら英語喋られんといけん!」
でも、そのころは英会話学校とかあまりなくて、あっても通えるほどのお金がなかった
僕はある行動に出ました。
僕の生まれ育った広島には原爆ドームのある「平和公園」があります。
ここには世界からたくさんの観光客が来ます。
歩いてる外人に
「タダでいいからオレにガイドをやらせてくれい!そのかわり発音とか教えてくれ!」
と頼み込んでガイドをしました。
最初は自分で作ったあんちょこを読みながら、質問されても「ワッカリマセェ〜ン!」。
やがて慣れてくると多少のやりとりができるようになり、お礼にご飯をおごってもらったり、その界隈では「変な子供のガイドがいる」とちょっと有名になりました。
半年もやると、そこそこ話せるようになり、バイトのお金も25万円貯まり、行きの航空券が買えるくらいになりました。
「よ〜し!これでワシもアメリカ人の仲間入りじゃぁ〜〜!」
と、意気揚々。
3年生になって担任の先生が進路指導の面接をしたとき
「中西、おまえ、高校どこ行きたいんじゃ?」
え?ワシ?あ、アメリカ行ってアメリカ人なるよ。
「お、おまえ、何言うとんじゃ?おかあさん、知っとんか?」
まだ話とらん。
というやりとりがあり、急遽、母親が呼び出され三者面談。
母親には呼び出された理由は言えませんでした。
「お母さん、こいつ、卒業したらアメリカに行く言よるんですけど、知っとってですか?」
????は?なんのことです?あんた、何言よるんね?
「中西、おまえ、アメリカ行ってなにするんや?」
え?スケボーやローラースケートやサーフィンするんよね先生。
「そりゃ、遊びじゃろ?学校はどうするんや?仕事は?」
学校は行かんよ。仕事はなんかアルバイトするけん大丈夫じゃけん心配しんさんな。
それから先生と母のサンドイッチでとくとくと説教をされた。
とどのつまり、アメリカで生活をするには部屋を借りるお金、生活費、なによりもビザを取らなければいけないとのこと。
行きの航空券だけではあっという間にホームレスになって、警察に捕まると強制送還になるということ。
当時の僕には突きつけられた現実の壁を乗り越える力も知恵もありませんでした。
何よりもこたえたのが母ひとり子ひとりの母子家庭で先生が
「中西、おまえ、お母さん楽にさしちゃるんじゃないんか?じゃけんバイトもしよるんじゃろ?おまえがアメリカ行ったらお母さんは仕送りせんといけんじゃろ?お母さんに苦労かけるんか?」
という言葉がずっしりカウンターパンチで効きました。
その言葉でアメリカ行きは断念。
いつまでも思い続けると悔しいから、スケボーは折り壊し、ローラースケートは友達にあげて僕は「アメリカを嫌いになる」ことにしました。
ガイドもやめました。
こうして僕の「第一回アメリカ進出計画」は終わりました。 つづく