暑いね~。
76年前も暑かったそうで、僕の母も爆心地から10キロ離れた青崎いう町で当時、空襲が激しかったけえ学校はお休みで寺小屋みたいなところで勉強していたそうです。
「ウ~~~~♪」
空襲警報も慣れっこになってて大して驚かなかったそうで例えて言うなら、東京に住んでいたらわりかし震度2くらいの地震が頻繁に起きてちょっと揺れたくらいじゃ避難もしないし、驚きもしないでしょ?
そんな中、いきなり窓の外がピカッ!と光って、その数秒後に「ドン!!」と大きな爆発音がしたら、窓ガラスが割れて、母たちの頭上に割れたガラスが落ちてきたそうです。
暫くして落ち着いたら全員家に帰るように言われて帰宅したそうです。
当時は武器を作るのに家庭の鍋釜は没収され、僅かな道具で日常を過ごしていたそうで、すでに制空権はアメリカに握らていて爆撃機の空襲警報も頻繁に聞いていて、爆撃が終わった後に焼け跡から使えそうなものを調達したりしていたそうです。
僕の母は祖母に連れられリヤカーを押して市内(爆心地)に向かったそうです。広島は三角州のデルタ地帯で、まちなかに川がいくつも流れています。橋にさしかかると、多くの人が川に向かい歩いていて、その姿は焼けただれた人もいれば、衣服が破けている人もいて、川岸には遺体が折り重なっていて、上にいる人は動いていて、まるで地獄を見てるようだったと話してくれました。
2つ目の川に差し掛かる頃にはもっとひどいことになっていて、中心地の方からは無数の黒い煙が立ち込めていて、さすがに鍋釜を探せる精神状態では無く、諦めて引き返したそうです。
そして、母と祖母はこのときに被爆しました。
中西家は戸籍謄本を見る限りでは「長生き」の家系です。
しかし、祖母は42歳、母は62歳と短命でした。
そして、僕の父も被爆者で65歳で短い生涯を閉じています。
3人共それぞれ「癌」で亡くなっています。
「被爆と3人の関係性を証明しろ」と言われても僕にはとうてい無理なのですが、全く無関係ではないと僕は思います。
数年前の福島の原発事故で被爆した方もおられると思います。
よく「原子爆弾と比べたら」とバカなことを言う人がいますが、原爆は即アウトで、問題は母のように「見えない被爆」で自分でも気づかないうちに身体が蝕まれてるということです。
未だに放射能が漏れ大量の汚水を海に流し続ける状態で、今すぐの健康被害が無かったとしても、何年、何十年後に身体に異変が発症し、発病して、人生を短命で終わる危険性が無いとは逆に言い切れないと思います。
本来なら、国がちゃんと向き合い、親身に対応すべきことなのですが、先日の「黒い雨訴訟問題」で結果断念したものの上告しようとしたり、昨日の平和記念式典での首相の大切な文言の読み飛ばしなど、心無い対応が目立つ中、原発事故の被害者の対応を手厚くするとはにわかには信じられないと考えます。
僕は被爆者の父と母の間に生まれた「被爆2世」です。
毎年健康診断をしていますが、いつ、癌が発症するかもわかりません。だからといって被爆者手帳のように医療費が無料になるというわけでもない中、その怖さを心のどこかに抱えて生きていかなくてはいけません。
戦争も原発事故も「人災」です。
二度とそうならないようにするためには「忘れないこと」です。
今年はオリンピックと重なりNHKでは首相がカミカミだった記念式典の中継だけで、特別番組も放映されないままその日は過ぎました。
「唯一の被爆国」と看板を掲げてる国の国営放送としてはお粗末でした。
最近では福島の原発のニュースもほとんど入ってきません。
こうして忘れられていくのが一番怖いなあとこの日を迎え過ごして思うのです。